散り椿
岡田准一の映画「散り椿」に感涙した。
夜、家に戻り、「散り椿」を観る。期待せずに借りてきたものだが、なんと、この邦画のハードボイルドなことか。感動した。岡田准一演じる瓜生新兵衛と西島秀俊演じる榊原采女の武士の友情。岡田准一の武士としての孤高さに脱帽。彼は役者を極めている。セリフに次のようなものがある。
采女「お主が不正と闘った時、するべきことを何もしなかった。全てはわしの罪だ。」
新兵衛「正しき道を進むことが必ずしも人を幸せにするとは限らんよ」
他にラストで新兵衛は次のようなセリフを言い、去っていく。
「散る椿は残る椿があると思えばこそ、散っていける。大切なものに出会えれば、それだけで幸せだと思っている。」
武士道
日本の原風景でもある武士の世界。そこに流れるものは何か?余りにも過酷なような規律の中で、何を見出したのか?
その武士の精神は、今のハードボイルド小説の主人公に受け継がれている。孤高であろうとも、その向こうに死が待っていようが、決めた志のために最後まで尽くす。例え、知られなくても。
武士道とは、死ぬことと見つけたり
鍋島藩の武士であった山本常朝の著作「葉隠」で武士道はこうあるべきだと書かれた言葉がこれた。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」。この意味するところ自体には諸処の説があるが、影響を受けた人間は多い。三島由紀夫が死を選んだところには、この葉隠の考えがあったようだ。
葉隠の武士道には、次のような言葉がある。
武士は、朝が来るたびに死を覚悟するものだ。朝の静寂のひとときに、自分が雷に打たれ、火にあぶられ、刀や槍で切り裂かれる様を想像する。玄関の一歩外が死界という意識を忘れずにいられるかどうか。これは単なる例え話ではなく、運命に対して準備をする武士の方法だ。
武士道から学ぶ
どちらにせよ、武士道における良き部分を今日の我々に持って来れば、良いような気がする。伝統の継承だ。武士道から、学ぶことは多いはずだ。葉隠れにも次の言葉がある。
人の一生など、まばたきひとつで消えゆく蒸気のようなもの。自らの楽しみを見つけ人生を費やすことだ
武士道とハードボイルドは同じ土俵にある。そこの舞台が、組織か個なのかの違いである。気持ちは同じだ。葉隠れにはこんな言葉もある。
武士とは、嵐の真っ只中にあろうとも、ひとり立ちすくせる者でなければ価値がない
散り椿にある心、「大切なものに出会えれば、それだけで幸せだ」を心に刻み、日常を生きていきたい。
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