めぞん一刻を語る⑦:間抜けの構造

めぞん一刻
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ビートたけし:間抜けの構造

ビートたけしの本の中に、『間抜けの構造』っていうのがある。ビートたけしの一時期のこの手の本での彼の表現はナカナカにおいて的を得ていて、頭の良さを本当に感じる。そして、結構鋭いことを現場目線というか生活目線で話をしてくるので、分かりやすく、いちいち、その通りだと納得してしまう。

見渡せば世の中、間抜けな奴ばかり。どいつもこいつも、間が悪いったらありゃしない。“間”というものは厄介で、その正体は見えにくいし、コントロールするのも難しい。けれど、それを制した奴だけが、それぞれの世界で成功することができるんだよ―。芸人、映画監督として、これまでずっと“間”について考え格闘してきたビートたけしが、貴重な芸談に破天荒な人生論を交えて語る、この世で一番大事な“間”の話。内容紹介

めぞん一刻での間抜けシーン

『めぞん一刻』という漫画の中にも、この間抜けの構造が垣間見れるところが結構ある。そこを見ていくことで、間抜けの構造について、考えてみようではないか。間抜けって、どうなのよ?

五代君は、響子さんとの関係では、とにかく、間が抜けているというかタイミングがとても悪いのである。それが誤解に誤解を呼んでしまうのであるが。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

間が悪いタイミングで間の悪い間違った話が出てきて、間の悪いことに、聞いてほしくない人にその話が直接伝わってしまう。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

五代君の間抜け具合は天下一品なのである。彼が真面目な故に、更に、そこに笑いがある。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

イケメン三鷹の間抜け度合いも、半端ない。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

三鷹の間抜けシーンとしては、犬との関係も面白い。この何とも言えない間の面白さ。この何とも言えないズレの間が読む側の私達の笑いを誘う。三鷹の間抜け度はイケメンだけに、素晴らしい色を漫画に与えてくれている。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

明日菜さんとの関係も、この間抜け的な人との関係や勘違いの中に、面白さが爆発。ウーム、三鷹も憎めんな。間抜けには、愛嬌があるのだ。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

一刻館の住人全員のコスプレ騒ぎも、ある意味、間抜けの頂点。実のところ、間抜けなのか、間が持てているのか、どちらのエリアなのか、不分明のところはあるが。一刻館住人のお決まりのこのドンちゃん騒ぎこそが、間とも言えるのである。これによって、いつものことだが、何故か、ひとつの落ち着きを見せるのである。話は。ということは、間抜けなように見えて間が持てているというベストな状態(?)と言って良いのだろうか?

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

間抜けはバカなのだろうか??

ビートたけしも言っているが、バカと間抜けは違う。バカはどんなタイミングであろうとどのようなシチュエーションであろうが関係ない。バカはバカ。潔いぐらいに。間が悪いとか間が抜けているのが、『間抜け』である。

間抜けの状態って、当事者と客観的にそれを見ている我々の間にはまるっきり違う世界があって、それがちょっとずれるだけで、思いっきりの間抜けな面白いことになってしまう。

間抜けはお笑いの世界の如く、笑い話として面白いのである。マジで。

そして、間抜けは、善人の世界なのであり、憎めない心の持ち主たちの話なのでもある。決して、悪いことではないように自分は感じている。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

間に合うか否か

三鷹は色々と響子さんにアプローチをかけたが、やはり、間に合わなかった。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館
出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館
出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

間に合った五代

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

間に合わない追いかけっこ。間抜けの連続で響子さんを追いかけっこしてきた五代の駆け抜ける想いがこの漫画のエンジンでもある。ここに、『めぞん一刻』の間抜けの効用があるのだ。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

いつも色々なことがあって間に合わない間抜けな感じの五代君は最後には間に合うっていうあたりが、実は、この漫画の肝であるのだ。最後は、間抜けではなかったのである。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

それまでの五代の多々なる間抜けがアウフヘーベンして間に合ってしまう頂点にまで昇天する。響子さんもそれなりに間抜けではあったのだが。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

間の重要性

『めぞん一刻』という漫画は、間抜けなような場面が多く、そこで笑いを持ってきて、逆に、何とも言えない時間的で空間的な「間」が絶妙にあるという素晴らしい作品なのである。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

そうなのだ。この漫画は、登場人物達にそれなりの間を持たせている。五代は就職浪人になるという間があるし、響子さんは未亡人という間で一刻荘の管理人になるし。人間の人生はその谷あり山ありの中に間があり、そこから次に向かうというところに面白さがあるのだ。

そして、登場人物達の会話にも、それなりの間があり、そこも面白さの原点となっている。KYなる言葉が流行るかなり昔に、この漫画があったことが凄い。間を読めない、空気を読めない、そういう世界も十二分に描かれている。

スポーツで一流になる人達は、間抜けではなく、間が良いよね。本当に、上手に間合いを取っている。そして、そのような間の良い人になるためには、間抜けのことをしっかりと把握できる資質が必要なのである。そうなのだ。間抜けの構造をしっかり把握しておく必要があるのだね。そういうことからすると、『めぞん一刻』はその間抜けの構造を把握する上での反面教師的な教科書になるかもしれないね。笑いの向こうにあるものとして。こんなコジツケで良いのでしょうか?良いんです!!

ことほどさように、間というヤツは大事な存在なのである。人生において。

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