めぞん一刻を語る⑫:夢みることについて

めぞん一刻

夢みるということはどういうことなのだろうか?

夢みることで現実逃避をするということなのだろうか。

『めぞん一刻』にみる「夢みることの意味」をそれなりに考えてみました。

夢みることを現実に実現しようとして行動に出て、それを実現する人達がいる。夢の実現に向けて直ぐに行動できる極めて自分に対してストイックな強い精神力を持った人達である。夢を具体的なものにする目標実現行動力を発揮できる人達である。イチローにしても大谷翔平にしても、夢を具体的に実現できた人物であろう。

だが、たいていの人間はそこまで強くはない。むしろ、自分に対して、弱い。たいていの人は自分がそうしたいと思うかなり上のレベルでの夢の実現に向けての行動をすぐに実行できはしないし、仮に実行に移ったとしても、目の前に都度出現する障壁を超えていくことが難しく矢折れて途中で倒れてしまうことも多い。夢を実現できるまでの精神的な強さと肉体的な強さの両方を重ね合わすことは、ナカナカ難しいことなのだ。

だが、果たして、そこまでの精神と肉体の強靭さを持っていない弱いような人間が夢みることは、意味のない徒労な行為なのだろうか?

そういうものでもないことを教えてくれたのも、この『めぞん一刻』である。とても平凡で、一生懸命に生きている市井の人達の物語である。それぞれの出逢いがありそれぞれの別れがあり、それぞれの夢がありそれぞれの夢の実現があるという、めぐり逢いが紡がれていく大きな物語でもある。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

夢を実現できる強い人達は目標そのものをそもそも最初から夢と思っていないのかもしれませんね。ただ夢をみている人をむしろ憐れんでいるかもしれません。

だが、この漫画の登場人物達は市井の人達です。我々の日常生活にもいる自分や周りの人間達の集まりなのです。そこに出てくる人達は、生きることに大きな自信を持っていて自分にとって不都合であるものをどんどん排除していくような強い人では決してないのです。むしろ、真逆かもしれない。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

だから、めぞん一刻に出てくる全ての登場人物には、逆に愛着がわくのです。決して強くはない弱い普通の人だからこそ、それなりの夢をみる。夢想する。時には、それはお笑い的な妄想にも転じていくけれど、それは現実に疲れたときとか何かの壁にぶち当たったときに、現実逃避としての少しだけの時間の救いの意味を持たらせてもくれる。

その夢とは、本当に、そこら辺にある簡単な普通な願いにも近いことで、家族や相手の幸せを思う夢が多い。そのような願いに近い夢が漫画のストーリーのそこらかしこにあるのだから、この『めぞん一刻』は良いのである。温かいのである。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

でも、今の時代、一般人である我々にとっても、家族で一緒に幸せに生きていきたいなんていう昔だったら当たり前そうなことが実はナカナカ難しいことなのかもしれない。

夢は何かって聞かれて、幸せな家庭を築きたいって昔言ったら、今でもそうかもしれないけど、多分周りの人に馬鹿にされていたはずだ。でも、幸せな家庭を作り維持していくのって、今、本当に夢の部類に入ってきているし、大きな課題で目標だって言って良いかもしれない世界になってきたような気がしてきているのは私だけでしょうか。

『めぞん一刻』には、自分の身の回りの人の幸せを願い、そういう生活を夢みる平凡な人達の世界があるのである。そこが良いのである。そこに希望があるのである。

ありきたりの普通のような生活こそが、夢であり、目標なのかもしれません。今は。『めぞん一刻』が今も生き続け多くのファンがいる背景には、そこが描かれているからなのでしょう。普通に生きていくことが結構難しい今。だからこそ、この漫画の中に夢を見ます。

出典:『めぞん一刻』(c)高橋留美子/小学館

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