伊藤健太郎研究の整理(6回目までの記事編)

伊藤健太郎

伊藤健太郎のことがメディアから消えてから、久しい。それも何故か寂しいことなので、今まで、このブログで記載してきたことを一部整理しておくことにしました。何やかや言いながら、18回も記事を書いていたので、整理は6回分ずつ、順次、配信していきます。気が向いたら、お読みください。

多くのことを言うべきではないかもしれませんが、彼に関することをこんな形で整理していくと、あの事件で浮き彫りにされてきた彼の実像めいたものを知るにしても、俳優としては稀有な存在であったと改めて思う次第でしたね。

人というのは、自分のことを考えると良く判るのだが、「自分」という意識も一種のイメージに過ぎないのではないか。自分は、自分の頭の中で作りあげた個性・キャラクターに過ぎないのだ。それと同じで、他人のキャラを我々は自分でイメージしていくのだ。その人の見せるであろう数々の物語を通じて(これは現実の人との交流世界でもメディアを通じての世界でも同じで)、自分の持っている自分への意識イメージと相互共感しながら、その人のイメージキャラを自分の中に作っていく。

そう考えると、伊藤健太郎としてのメディアを通じてのイメージをどう解釈していくのかは本来自分の中の自分の意識というイメージに依拠するものであるから、自由なのである。事件の前後で我々が思い描く姿はすべてその意識のイメージに過ぎない。彼の物語は事件で、大半の人は、イメージが変わったのであろう。世間的には。だが、彼の事件前の映画やドラマを通じてのイメージの集合体はとても良い美しいものであったのである。他人の人生をイメージすることと自分の人生をイメージすることの間には本質的な違いなどないのだ。多くの人達が未だに彼を信奉するのは、彼の役者としての描き出した物語やイメージに感動し共感をしていたからなのである。架空の話でも人間はそこに自分の人生の現実の中に何らかの形でそれを受け入れていく。それがイメージなのだ。自分の人生というものは、良きものを自分の中に取り込んでいくというイメージで出来上がるのだ。それがファンというカタチの根源であるかもしれない。随分と、話がずれたかもしれないが、彼の持つ俳優としての良きイメージ部分はそう簡単には消せないと思うのだが、如何か。彼を大事にしたいという人達の意識のイメージを抹消する権利は誰にもないであろうし、そもそも人間が自分で描き出すイメージは常に自由なのである。

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第1回

伊藤健太郎研究(その1)
若き俳優として気になる存在が、伊藤健太郎です。彼の存在が近頃気になっています。そこで、映画好きとしては、少しだけ伊藤健太郎を検証しておきます。今回の映画は、『コーヒーが冷めないうちに』『惡の華』『デメキン』の3本です。

第2回

伊藤健太郎研究(その2)
映画に脇役で出ていた頃の伊藤健太郎の初期を追ってみますね。今回観てみたのは、『俺物語!!』『14の夜』『サクラダリセット』の3つであります。加えて、彼の好きな俳優ハビエル・バルデムの『ノーカントリー』も入れておきました。

第3回

伊藤健太郎研究(その3)
今回の『伊藤健太郎』は、ガールズ系映画やドラマで活躍するところの俳優としての彼に注目してみます。今回は、伊藤健太郎が準主役であった『アシガール』をみていきます。

第4回

伊藤健太郎研究(その4)
宮本武蔵横浜流星と佐々木小次郎伊藤健太郎という二大巨頭。両雄相並び立たずなのか、物凄いアウフヘーベンするか、興味津々である。そんな二人の舞台経験について書いていこう。今回は、伊藤健太郎の2つの舞台に触れる。『続・時をかける少女』と『春のめざめ』である。

第5回

伊藤健太郎研究(その5)
映画における脇役の伊藤健太郎を引き続き、みていこう。今回、脇役系映画の2つをピック・アップしました。『チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜』と『覚悟はいいかそこの女子。』です。地味に凄い脇役なのであった。

第6回

伊藤健太郎研究(その6)
伊藤健太郎の映画がこれから続いていく。少しずつ、コロナで順延されたものが公開されていく。そこには、いつもの、あの昔ながらの普通の『伊藤健太郎』がいる。そこが、とても、嬉しい感じがする。今でも十分に青い彼が。今回は、『のぼる小寺さん』と『弱虫ペダル』。

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