伊藤健太郎のことがメディアから消えてから、久しい。それも何故か寂しいことなので、今まで、このブログで記載してきたことを一部整理しておくことにしました。何やかや言いながら、18回も記事を書いていたので、整理は6回分ずつ、順次、配信していきます。気が向いたら、お読みください。
多くのことを言うべきではないかもしれませんが、彼に関することをこんな形で整理していくと、あの事件で浮き彫りにされてきた彼の実像めいたものを知るにしても、俳優としては稀有な存在であったと改めて思う次第でしたね。
人というのは、自分のことを考えると良く判るのだが、「自分」という意識も一種のイメージに過ぎないのではないか。自分は、自分の頭の中で作りあげた個性・キャラクターに過ぎないのだ。それと同じで、他人のキャラを我々は自分でイメージしていくのだ。その人の見せるであろう数々の物語を通じて(これは現実の人との交流世界でもメディアを通じての世界でも同じで)、自分の持っている自分への意識イメージと相互共感しながら、その人のイメージキャラを自分の中に作っていく。
そう考えると、伊藤健太郎としてのメディアを通じてのイメージをどう解釈していくのかは本来自分の中の自分の意識というイメージに依拠するものであるから、自由なのである。事件の前後で我々が思い描く姿はすべてその意識のイメージに過ぎない。彼の物語は事件で、大半の人は、イメージが変わったのであろう。世間的には。だが、彼の事件前の映画やドラマを通じてのイメージの集合体はとても良い美しいものであったのである。他人の人生をイメージすることと自分の人生をイメージすることの間には本質的な違いなどないのだ。多くの人達が未だに彼を信奉するのは、彼の役者としての描き出した物語やイメージに感動し共感をしていたからなのである。架空の話でも人間はそこに自分の人生の現実の中に何らかの形でそれを受け入れていく。それがイメージなのだ。自分の人生というものは、良きものを自分の中に取り込んでいくというイメージで出来上がるのだ。それがファンというカタチの根源であるかもしれない。随分と、話がずれたかもしれないが、彼の持つ俳優としての良きイメージ部分はそう簡単には消せないと思うのだが、如何か。彼を大事にしたいという人達の意識のイメージを抹消する権利は誰にもないであろうし、そもそも人間が自分で描き出すイメージは常に自由なのである。
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