伊藤健太郎研究その17:糾弾の向こうに

伊藤健太郎

やはり、納得のいかないところが多いので、ここに書き記させて頂く。どうにもこうにも、時間は流れていく。そして、人は忘れていく。大事なことや想い出にあった人達を。とても、その人を通じて、多くの良きことを経験したのに。

そういえば、近頃、伊藤健太郎主演の映画『十二単衣を着た悪魔』を観たことのある男性が結構多いことに気がついた。加えて、彼らの殆どが、彼のことは俳優としてはあまり知らないがニュース等の交通事故事件で彼に注目したという人達なのである。結果、映画を観た彼らは一応に、彼の演技が結構いいじゃんと言っているのだ。そういう男どもの反応現象が巷で起きているんだよね。これって、とても大事なことだよね。

つまりだ。彼の役者としての仕事のレベルはかなり高いのだ。その証左であるのだ。俳優として、しっかりとしたものを持っているんだよね。若いとはいえ。地道に努力してきた成果が映画の随所に出ているのです。本人がそもそも持っていた才能もあるのでしょうが。

初めて映画等で伊藤健太郎を観た男達からすると、交通事故での悪い印象がバイアスとしてあったにも関わらず、感想としては、意外といい役者だよという反応になるのだ。つまり、観た人達は、特に男っていうのは単純かもしれないが、そういう彼の役者としての良さを本質的に感じるのである。ここが大事なところなのである。

彼のことが大好きなファンや映画好きなら当然彼の俳優としての良さを知っているが、同様のことを彼の演技を初めて観た人達が自然と感じるという点を重要視してもらいたいと思うのである。このまま消えていくのには、惜しすぎる役者なのである。前回のブログでも書いたが。

ちなみに、彼はそこまで悪いことをしたのか。悪というレッテルを張られるようなことをしたのだろうか。覚せい剤を常用していた人や未成年者に対する淫行事件に関わった人の持つ悪さの程度とは全く違うような気がする。これらの人の事件は正直言って、悪さの質が本当に酷い。故意なる犯罪であり、とても卑怯な悪さというか、反社会的な行為であり、関係する当事者を精神的にも肉体的も傷つける行為というか所業である。果たして、伊藤健太郎の交通事故は卑怯な悪であろうか。そこまでのことはないのではないだろうか。通常の人が起こしうる日常の過失事故ではなかろうか。そこまでの社会的批判は少し大げさすぎないか。彼は決して悪ではないのだ。そこを忘れてはいけない。そんな気がする。(ちなみに、日常茶飯事にひき逃げ事故を起こしているという話が出回っているが、本当なのだろうか?)

自分を振り返ればわかることだが、人間というものは、良いところと悪いところの2つの局面があろう。その悪い方や駄目な方の局面だけをみて、その人を糾弾していくというのは如何なものか。彼の俳優としての真摯さや映画やドラマを際立たせるそのセリフや表情の素晴らしさなど良いところもしっかりとみて、その人の将来を考えて糾弾をして欲しいと思うね。人を批判することや糾弾することは簡単だろう。そこまでの悪でないことに対して、そして、自分のことでないから、非難に更に熱を入れる。しかし、もし、そういうことが自分に降りかかってきたら、その人は、どういう気持ちになるだろうか。ここまでのことはやれないのではないだろうか。

俳優としての伊藤健太郎を失ってはいけない。彼にとって代わる役者はそうそうにはいない。この事件で彼が役者として復帰が出来ないとしたら、それこそ大変なことだ。マスコミも個人も、その観点を持ち、彼の後押しをして欲しいと思う。糾弾するばかりが報道やSNSの世界ではないはずだ。時間がかかってもしょうがないが、その人の持つ良き面をしっかりと把握され、役者として再度活性化できる場所に戻してもらいたいと切に思う。彼の復帰を手助けしてくれる心ある業界人や影響力のある人がいてほしいなと思う。伊藤健太郎のいない映画やドラマはつまらない。そういう世界は望んでいない。彼の良き側面を是非クローズアップしてもらいたいと切に感じている。想い出として忘れ去っていってはいけない人。もっともっと、映画の世界で生き続けてほしい。

静かに時間は流れていく。だから、まるで、静かに忘れていけという世界のようだ。しかし、この件に関しては、そういう世界であってはならないだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました