村上春樹の「納屋を焼く」の映画化
村上春樹の『納屋を焼く』を映画化した韓国映画『バーニング』を観る。
この映画は、村上春樹の短編「納屋を焼く」が原作となっていますが、かなり小説とは違う映画となっています。
このようなストーリー展開の映画化を村上春樹が認めたのでしょうか?
それはともかく、小説と映画の相違点を以下に記載してみましょう。
村上春樹の中でも、この不思議なミステリアスな作品の本質に近づけるかもしれません。
納屋を焼くの意味(メタファー)
それでも、この韓国映画「バーニング」はカンヌ映画祭に出品され、ヨーロッパでは、人気を呼んだらしい。
この韓国で有名なイ・チャンドン監督は、この小説自体が世界の若者達についての物語であり、そこにはミステリーがあると言っている。
それと相通じるように、映画では、「納屋を焼く」の言葉の意味というか、メタファーは、殺人のことを指すと思わせている。
小説では、彼女が消えてしまうことになっているだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
しかし、この映画はそこに深く入っていく。彼女が消えたことをかなり明確に、セレブな男である彼に彼女は殺されたことに結びつけている。
そして、主人公の僕が彼までを殺すところまでに発展する。なかなか、シュールなところまでの小説の変形があるのだ。
これはこれで、こういう結末になるのかと、映画を観て、驚いたのは事実だ。
果たして、村上春樹は少なくとも、彼に彼女を殺させたところまで、その小説の中に含めていたのだろうか?
登場人物達の設定の相違点
「納屋を焼く」の主人公僕は作家として成功している中年男性で既婚だが、映画では、大学を出たけれど、就職はしておらず、アルバイトをしながら作家志望の20代の青年になっている。
小説での彼女は映画も同じく、主人公僕の出身地元の幼馴染の同級生で、パントマイム好き。ここらへんは同じ。
しかし、小説では僕と彼女はあくまでも友達で、僕は彼女に対して恋心とか執着心を持っていないように淡々とした関係である。
しかし、映画での主人公僕はメラメラと嫉妬心に燃える。加えてだが、映画の方にのみ、彼女が猫を飼っていることになっており、この猫も結構のキイポイントだ。
猫好きの村上春樹の小説の方には、猫は出てこない。
謎の男である「納屋を焼く」彼は、映画も小説もセレブな全てを持っている男として、共通に描かれている。
ギャッピーもフォークナーの話も同じように出てくる。この彼だけは共通なのだ。
ギャッピーのような彼は、いきつけの喫茶店でフォークナーの小説を読む。そして、主人公の僕が持っていない全てのものを持っている向こう側の人。
井戸
村上春樹作品の大事なツールとして、井戸がある。この作品でも井戸が出てくる。
映画の中でも、彼女は地元の井戸に落ち、何時間もそこにいて、誰も助けてくれなかった。しかし、主人公である僕が助けてくれたと。
そして、井戸にいた時の気持ちを述べる。
村上の作品では、井戸に落ちて長時間底にいることで、自分の中に入っていき、最後は相手の心まで入っていくことができるようなことまで起きることを示唆する。
映画の中で、彼女はさらりと井戸の話をする。主人公の僕はその記憶がない。
しかし、これも重要なメタファーではなかろうか?
どこかで繋がっているという。自分と、そして、想う人と。
曖昧模糊な時代
村上作品の小説が映画化された。
そこにあるのは、この監督が言うように、曖昧模糊とした世の中において、若者達は、人は、どのように対応したらいいのかと言うことを示したものであろう。
そして、持てる者と持てない者との歴然とした壁。そこを破壊するのは暴力しかないのか。納屋を焼くように。
村上春樹作品にある共通した曖昧模糊さの不完全さをこの映画でも同じように追求している感じはする。
しかし、そこに、果たして、本当の対処方法があったのかはやはり、ミステリアスとしか言いようがない気がする。
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