中年から老年の人生を描いている小説や映画を中心に、近頃、記事を書いている。
小説「終わった人」
今回は、3年以上前に読んだ内館牧子の小説が映画になっていたので、そのことについて、書こう。
そうだ、定年後シリーズも書いてみよう。最初が、『終わった人』だ。
そもそも、この小説は日経新聞の連載小説だったのだ。だから、サラリーマンが多くの読者だったはずだ。
定年退職したサラリーマンのための小説だが、読者連中は、自分も明日は我が身という感覚で読んでいたはずだ。
なので、この連載は受けた。そして、直ぐに単行本になった。皆、第一の職場を失なった時やこれからのその時を考えて、不安になるのだ。
映画「終わった人」
ヒットしなかったが、良し
映画は、小説をしっかり、そのまま、映像にしたといって良いだろう。
最後まで、ホンワカとしているのも、同じだ。
配役も結構ベストメンバーを揃えている。なのに、何故かヒットはしなかった。不思議だ。
今、多くの映画が作られている。映像技術の進化もあり、簡単に作品を作れる。映像作品が、乱立している。そういうことも、関係しているのだろうか?見る映画はいくらでもある。すぐに飽きられてしまう、大量生産の世界か?
だが、どちらにせよ、小説を上手く映像化した良作だと、俺は思う。
ストーリー、スタート
舘ひろしが、東大出身のエリート銀行員。このまま、役員になれるかと思いきや、グループ会社の専務に左遷。そして、定年退職へ。
ここから、話は始まる。会社を去る時に、舘は思う。定年退職は生前葬だ。会社の前で、用意された車に乗り見送られるのは、霊柩車に乗せられる死体だ。送る部下たちは、形式的な儀礼をするに過ぎない。
ただただ、悲しい送別。これだよね、定年退職は。人が生きたまま、要らなくなる第1段階。
毎日が日曜日
組織に属し組織に忠誠を誓ってきたサラリーマンは、そう簡単に「毎日が日曜日」を謳歌できない。
舘が翌日から毎日が日曜日になる。そういえば、昔、城山三郎の小説でも、同じ題名のものがあった。
仕事がないと、プライドが萎み、愚痴を言い、自分はまだまだやれるレベルにあると強がりをし、周りにジジババしかいないとわかると、また、落ち込むというやっかいな負のスパイラルに入り込む。
特に、主人公のように東大出身で自分は日本のために何らかのことが出来たはずと悔やむので、さらに、やっかいだ。
そこを黒木瞳演じる妻に見破られる。「恋でもしたら」と言われる始末。妻は余裕だ。
個人の逆襲
この妻、さすがなのは、夫がグループ会社に左遷されたときに、自分の夫を見捨てた会社組織をこう把握する。
会社は能力とか人望とか関係なく出世が決まる。会社なんて頼らずに、私が技術を身につけて、パパを養うと。
それで美容師になり、自分の美容院を持つに至るのだ。できるな。
男は馬鹿だから、こういうように考えられない。
この柔軟性が大事だ。この考えこそが、今の流れだろう。副業もそうだし、仮想通貨(特にブロックチェーンの発想)もそうだ。
組織に全てを入れ込まない。フラットな姿勢で、個人であることから始まる仕事の作り方を模索しているサラリーマンが増え始めている。
良いことだと思う。良い意味で、群れないのだ。それを黒木瞳妻は感性として分かっていた。
大事な昔の仲間
主人公舘は、大学院で啄木を勉強しようとし、カルチャースクールの女性広末涼子に恋をする。
IT企業の若い社長に見込まれ顧問に就任し、突然その社長が死に、舘が社長になり、その後、すぐに会社は破産し責任と借金を負うという結構ジェットコースター的小説的に面白い展開となる。
だが、その後の地元岩手の高校ラグビー部の同級生佐野史郎やベンガルや渡辺哲から言われた言葉に、舘は結構救われるし、ハタとそうだと確信もする。
同級生は大事だなぁ、ホント。すなわち、
この映画の教訓は
1.思い出と闘っても勝てない。大事なことは、そこから、どう生きるか、だ。
2.人の行き着くとこは、大差ねえのす。皆、似たようなジジイになってるべ。
3.まだ、生きてる。終わってねえど!
ハラハラハラセ、サッコラーチョイワヤッセー、サッコラーと、
「幸呼来」の踊りで盛り上がろうぞ。岩手で、さんさ踊りだ。
良寛の辞世の句だ。
散る桜、残る桜も散る桜
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