人は見かけによらない
人というものは、果たして、アウトプットされる画面の表面だけからは把握できないことを感じさせてくれた。往々にして、我々は人を直感だけで判断してしまう。外観で人を判断してしまうことの近頃の一番良い例が今回であった。
古市憲寿。彼を良くテレビで見かける。社会学者としてなのか、評論席で色々なコメントをしている時が多い。とても、無機質な感じというか、冷めた感じが強い人かなと思っていた。
軽佻浮薄とまで行かなくても、軽い感じも勝手にした。テレビ画面に映り出される顔とその表現の仕方については。それが第一印象であった。そして、芥川賞候補作に小説がなったと言われても、読みたい感じをしなかったのが正直なところだった。
それでも敢えて、彼のこの小説を手にしたのは、読みたい作品が少なくなってきたこともある。実は巣籠りが多くなり、片っ端から手当たり次第に小説を読み続けていたのだ。中には、2回目の読みになる小説さえあった。そんなこんなで、嫌々ながらも読んでみるかと思ったのが、古市憲寿のこの小説だったのだ。
ところが、だ。読んでみて、数ページで、彼のこの小説がとてつもなく良く出来ている作品であることを感じてしまったのだ。文体も素直だし、今の時代のアイテムもそれなりに散りばめてあるし、何より、何というのか、画面に見えてくる古市氏の実際の心っていうものが見えてきて、それは、表面はクールにしているくせに実は向こうに見える心がとても優しいんではないかというあたりをそれとなく気付かされてしまうのだ。
何なの。この人、外見や発言とは違って、とてもナイーブでとても秘めている心根はかなり良いんじゃないの、と思わせてくれたのだ。その印象は、最後のページまで変わらなかったね。
ということで、この本、結構、読む価値ありますね。人は見かけによらない。その奥にある心根は、そのギャップが大きいほど、自分に突き刺さってきますね。こういう不思議な感想になりました。無機質な都会の向こうにある人の温もりっていうか。
ちなみに、この小説に対するカスタマーレビューとかでは、かなり辛辣な指摘がされている。そして、芥川賞の選考結果でも。古市氏の小説創作がアザトイというあたりのことが書かれている。そこをどう感じるかというところも含めて、読んでみることをお勧めする。私のような判断をする人間もいるということも含めて。
小説:百の夜は跳ねて
この小説は、決定的に新しい。「令和」時代の文学の扉を開く、渾身の長編小説。「格差ってのは上と下にだけあるんじゃない。同じ高さにもあるんだ」。僕は今日も、高層ビルの窓をかっぱいでいる。頭の中に響く声を聞きながら。そんな時、ふとガラスの向こうの老婆と目が合い……。現代の境界を越えた出逢いは何をもたらすのか。無機質な都市に光を灯す「生」の姿を切々と描ききった、比類なき現代小説。
内容紹介
気になるあたり
この小説は、新たな令和に入る時代の現代小説とも言えるだろう。だが、そのマインドは、ある意味、昔からのヒューマンなところに宿っている。そんな彼の小説の文章の中で気にいったあたりは、例えば、次のところ。
高層マンションに住んでいる老婆に言わせた言葉。
「あなたも、その方といつまでも話せるかわからない。だから声が届いているうちは、聴き洩らさないほうがいいわ。よく、死んだらまた会えるなんて言う人がいるでしょ。私、違うと思うの。会えるかもしれないし、会えないかもしれない。この世界で会えなかった人がたくさんいたように、死んでから会えるとは限らないでしょ。きっと、あちらのほうがこちらよりも広いでしょうから」
百の夜は跳ねてP.92
主人公が感じたビル掃除で転落死した先輩の声。
俺はかっぱぐと思うんだよ。たとえ誰も外を見ない時代が訪れても、俺は外にいたい。外からたまに中を覗ければそれで十分じゃないか。さぞ中は窮屈なんだろうな。そうだな、窮屈だから外を見たいのか。もし中で自由に息が吸えていたら、窓なんて開ける必要がないもんな。だけどあいつらは外で生きていく勇気はない。まあ、俺らも、一生このまま外にいられるのかわからないけどさ」
百の夜は跳ねてP.127
最後に言わせた言葉。
ふと老婆と交わした言葉が蘇る。
「美咲さん、地球が丸いのはどうしてか知っていますか」
「急にどうしたの」「僕たちがあんまり遠くを見ないようにらしいですよ」
「遠くまで見たかったら、自分でどこかに出かけるしかないってことね」
美咲さんはまだビラを読んでくれている。もうすぐ選挙ポスターを作るというから、また母に会いにいかないとならない。
百の夜は跳ねてP.185
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