美って、規則や法則があるわけではないんだよね。多分。人の心に呼応することであり、それは、美と醜を区分けできる・感じ分けられる精神的なものという人の内面精神に入っていくことになるのかな。
例えば、オリンピックである。
アスリートの躍動する肉体そのものに美を感じることはあるだろうが、それ以上に、そのスポーツで金メダルを目指して競技に挑むその人間の姿からその人の今や今までの努力や気持ちや純粋な心根に美を感じることが多いのではなかろうか。少なくとも、この心のスタンスを醜という人は少ないのではないだろうか。
このオリンピックという世界の中で我々が感じ取れる美というものは、競技でトップを目指すという目的の為に、その目的を果たすために、その人が今取っている行動や気持ち、今まで取り組んできた努力や心根が、効果を挙げた時に、発生しているものとも言えます。美っていうのは、実は、この目的に向かっているときに美が発生してくるとも言って良いのかもしれません。

美って何だろうと思うのである。絶対的な美っていうものがあるのだろうか?自分が美しいと思っているものが、他人には一向に美しいとは思わないことがあるのである。
そうなのだよね。美って、どちらかと言えば、人によって違うように、相対的なものなのではないかと思うんだよね。
時間などについて、物理学の世界で、アインシュタインが指摘した理論の一般的相対性理論とは逆の世界が美の本質なのではないかとさえ思うのだよね。時間は自分の感覚では、絶対的時間で過去から未来に一方的に流れていくものであるけど、一般的相対性理論の世界では、時間はどっちの方向でも自由なのである。ふにゃふにゃなんだ。
しかし、美に関しては、人の感覚として相対的で、絶対というものがないのではないかと思えてくるのだよね。不思議だね。美って。
ところで、外見的・外形的に美しい顔や美しいと言われる体形・スタイルを持ってして、それを美と客観的に言えるのだろうか?
そこに心や内面が全く分からない場合です。それは、当然、それぞれの人の持っている内面の感性から、美しいと思えれば、そこに美は生ずるというのが結論ですが、それはあくまでも人それぞれによる相対的な美に止まるもので、絶対的な美にはなり得ないものではないのかと思われます。
そんなことを言っていると、万人が認める美って、そもそもあるのかよという話になってしまいますね。
美を醜の対極として捉えるとしても、限界がある。故に、美学という学問が生ずる事実がある。美をどう把握していったら良いのだろうか、はたと悩む今日この頃である。

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